徐葆光が見た琉球 〜冊封と琉球〜

300年前の幻の書が、東洋の宝石、美徳と不老の憧憬の邦を描く!

歴史背景

琉球と中国の交流は、1372年、琉球国・中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ朝貢したのが始まりだといわれている。これに対し中国からは冊封が行われ、以来、廃藩置県までの五百年間に渡って「冊封・朝貢関係」をベースに琉球と中国の関係は続けられた。

冊封とは、朝貢国の王侯がかわると、中国皇帝が使者(冊封使)を派遣し、新国王を任命することであり、琉球にたいする冊封は1404年から1866年の最後の琉球王尚泰(しょうたい)まで23回行われた。

冊封は従属関係にありながら、温和な外交関係を形作り中国にとっても外国との調和を図る重要な政治であった。そして朝貢する国にとっても、高い水準の文明やシルクロードから運ばれてくる調度品の調達など、利することが多かった。その中で利ではなく、徳と礼でこの関係を大事にした国があった。琉球王国である。当時の明や清の王朝とその使節に対して儀礼でもてなし、その誠実さは清の「万暦帝」に「守礼の邦と称するに足りる」と絶賛され大事にされた。琉球は、この「冊封・朝貢関係」をもとに、広く東アジアや東南アジアの国々と交易を行い「大交易時代」で国を飛躍させていった。

時代は中国の明代から清代、康熙58年(1719)年、徐葆光(じょほこう)が尚敬王の冊封副使として正使海宝とともに来琉し、冊封使録『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』を著した。同書は琉球への渡航、冊封の儀礼と七宴、琉球国の地誌、官制、風俗、琉球語などを報告する行政書として発行されたが、琉球を紹介する木版本としても江戸や京都でも出版された。フランス語にも翻訳されるなど琉球認識を形づくる上で重要な役割を果たした。現在では琉球の文化研究の一級史料としても位置付けられている。

秀才であり、且つ清廉潔白であった徐葆光は、琉球を敬意と愛情を持って私的な漢詩集『奉使琉球詩』も著している。これは近年まで「幻の本」であったが、現在、徐葆光研究者によって発見、翻訳された。また、徐葆光の謎の部分であった歴史も解明されつつある。

本作品は、そういった中国と琉球、日本との歴史的背景や新事実を紹介しながら、徐葆光やその他冊封使たちの残した史料や琉球王家文書などを基に、琉球王朝時代の沖縄の生の姿を考察してゆくドキュメンタリーである。また、歴史研究者の新発見の事実、舞踊家の方々の当時の芸能の復元・再現の過程を描く。

そこには冊封使たちの生の目で見た琉球の芸能や文化が浮かび上がってくる。武器を捨て、文化・芸能を国の柱とする「いくさを捨てた、守礼の邦」の姿がそこにあった。折しも徐葆光の冊封の年は、琉球芸能の一大発展期であった。

今は途絶えてしまった壮大な総踊り「入子躍(いりこおどり)」の原型と、ユネスコの無形文化遺産となった「組踊」が、踊奉行であった才人、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)によって「冊封之宴」で初演された時であった。徐葆光は、その琉球の芸能や文化水準の高さに魅了された。

また、琉球国の政治・経済で辣腕をふるい国民からも慕われた蔡温(さいおん)、程順則(ていじゅんそく)といった才人らが国政の中心を担い、徐葆光と親交を深めた。徐葆光の時代は、優れた政治家と芸術家を輩出した時代といえる。はたして、初演当時の組踊はどんなものであったのだろうか?入子躍とはどんな様式で踊られたものなのか?

それら芸能の再現・復元も試みながら、琉球という時代を『歴史と芸能・交流・食』といった部分から振り返ってみたい。以前、我々は「江戸上り芸能」の復元を描いたが、沖縄にはまだまだ復元に挑まなければならない重要な琉球芸能がある。それは琉球人、日本人としての責務なのではないかと思う。

それも「日本の中から見た」、ではなく、「中国人・冊封使の目から見た」、という、新しい発想において琉球の文化、芸術を描いていく。そして彼らの思いも描くことにより、より客観的で冷静な歴史的考察ができるのではないかと思うまたそこに、真の交流のありかたも見いだせるかもしれないと期待する。

徐は今から約三百年も前の人物であるが、彼が琉球にまいた友好の種は、今でも沖縄に影響を及ぼし、人々を励ましている。中国には「前人栽樹、後人乗涼(先人が木を植え、後代の者がその陰で涼む)」ということわざがある。

徐葆光やその他の先人たちの残してくれた貴重な記録を基に、当時の中国と琉球の交流の歴史をたどることにより、新しい「文化を基軸とした交流」が始まるきっかけとなるドキュメンタリー映画となれれば幸いです。